留萌の航空写真に写る謎の施設について
ツイッターで、「留萌の航空写真を見ていると石炭液化工場と思われる工場を発見した」という旨のツイートを拝見しました。
私も以前に航空写真で確認していましたが深く考えていませんでした。
今回はこの施設について考察していきたいと思います。
結論から申し上げると
写真の施設群は北海道人造石油株式会社の留萌工場ではないか?
ということです。
そう思った理由や根拠を書き連ねていこうと思います。
人造石油ってなに?
ここで、そもそも人造石油とはなにか。ザックリいうと石炭を人工的に石油にしたものです。(石炭液化)
石炭は採れるけど石油が足りない…
昔の人は閃いた!!💡
じゃあ、石炭から石油を作ろうじゃないか!!
という話です。(こんなに単純ではない)
この人造石油を造るための会社、北海道人造石油株式会社などについては別に書こうと思っていますが…今回は写真の施設について考えていきます。
謎の線路と謎の建物
まずはその施設が写っている航空写真をご覧ください。
国土地理院 航空写真1948/05/05(昭和23年)留萌
さらに、施設や線路が写っている箇所を拡大したものがコチラ
国土地理院 航空写真1948/05/05(昭和23年)留萌 トリミング編集
写真には留萌本線とは別に並行して走る線路が確認できると思います。
この線路は留萌駅を深川方面へ出発すると北に一度広がってから現在の留萌icがある場所で留萌本線を跨線しています。
その後盛り土を下って今回問題の場所へと繋がります。
まさか線路を立体交差しているとは思っていませんでした。わざわざ立体交差するぐらいですから重要な線路だったのだと予想できます。
立体交差地点よりも少し北に「東留萠信号場」という信号場がありました。この信号場についてはWikipediaをご覧ください。
実はこのWikipediaで謎の施設について触れられており施設へ繋がる線路についても解説されています。以下に該当箇所を引用します。
信号場廃止後は羽幌線廃止まで、留萠駅構内の羽幌線用操車線群へ留萠本線側から構内渡り線を使用せずに深川方と直接往来できるよう、当信号場の西側端に当たる位置に分岐が設けられた。この構内渡り線をバイパスする線は、元々戦時中に現在の東雲町1丁目から2丁目にかけて建設された軍需工場の北海道人造石油留萌工場への専用線の送り線だったものを再利用して留萠本線へ接続したもの。この専用線送り線は留萠駅構内から留萌川を渡って旧信号場の西端付近まで本線の北側を並走した後、少し北側へ膨らみながら築堤の高度を上げて旧信号場の東側端に当たる位置、丁度、現・国道232号が跨線している場所で留萠本線を跨線し、工場敷地脇へ敷かれた専用線本線へ並走しながら築堤の高度を下げて合流した。また専用線本線からは留萠駅方へスイッチバック状に戻る戻り線があり、留萠本線の南側の少し離れた位置を並走して旧信号場の西端より手前で留萠本線へ合流していた。専用線本線からは東側へ90°カーブする2本が現・留萌市立病院辺りにあった工場へ、戻り線からは西側へ90°カーブする1本が現・北海道留萌土木現業所辺りにあった工場付帯の何らかの施設(留萌研究所?)へ分岐していた。戦後間もなく工場と共にこれらの専用線も、僅かに頭書の部分を残して撤去された。
はい。ということで最初に私が説明したことも全部ここに書いてありました…しかも、こちらのほうが正確かもしれません。
この謎の線路は
「元々戦時中に現在の東雲町1丁目から2丁目にかけて建設された軍需工場の北海道人造石油留萌工場への専用線」
だったんですねー!!めでたしめでたし…
現在の東雲町1丁目から2丁目に軍需工場の北海道人造石油留萌工場??
北海道人造石油留萌工場って今留萌市自衛隊駐屯地のあの建物じゃないの?
北海道人造石油株式会社留萌研究所全景(昭和18年2月)
↑これです、これ。
ここが私の一番の勘違いでした…
どうやら今駐屯地で使用されている建物とは別に工場があったらしい。ここで大事なのは「研究所」と「工場」は別のものであることを理解しておかなければいけない。
(勘違いというか思い込みしていたのは私だけかもしれない。けど、だって、あの建物が研究所だったことしか知らなかったし…)
私はここがごっちゃになっていた。つまり、
- 現在留萌駐屯地で使用している建物は「北海道人造石油株式会社留萌研究所」
- Wikipediaで言及、航空写真で見つけた施設は「北海道人造石油株式会社留萌工場」
であるということ。
そして、航空写真に写る謎の建物は「北海道人造石油株式会社留萌工場」ではないか?
理由①
実は「化学工学資料のページ」というHPの北海道人造石油物語というサイトではこの工場にについて紹介されている。
このHPは伊東章 東京工業大学名誉教授が作成したものです。伊東さんは留萌市出身、化学(分離工学)を専門とされているようで石炭液化について詳細に解説されており、留萌工場や滝川工場についても紹介されているため私のブログより参考になると思います。(自虐して言うのもあれですが、他の方がまだ触れていないことを発見したので最後まで読んでくれると嬉しい…)
で、話を戻すと研究所とは別に「北海道人造石油株式会社留萌工場」があったということなんですが、実は未完成で終わってしまっているのです。北海道人造石油物語から引用します。
留萌工場は1939年に起工したものの,資材不足と軟弱地盤により建設が遅れ,操業に至らず終戦を迎えた。
皆さんもご存じの通り日本は鉄などの鉱資源が豊富ではなく、工場の建設のための鋼材も調達できなかったのでしょう。鉱資源不足(石油)を解消するための工場建設が資材不足によってできなかったというのは 何とも言えません。
建設が遅れた理由のもう一つが軟弱地盤であること。北海道の多くは泥炭地であり軟弱地盤です。
工場建設地も例外ではなく航空写真からも沼があるような土地ですので建設が遅れたことも頷けます。
最近開通した留萌深川自動車道は工場跡の北東を走っていますが軟弱地盤であり盛り土による留萌本線への影響を考慮した工事が行われていました。
航空写真は1948年で終戦は1945年なので終戦3年後の写真です。終戦まで操業に至らなかったとのことで、いま改めて写真を見ると確かに完成したにしては空き地も目立っています。(終戦後解体された可能性もありますが解体する余力もないでしょう)
HP作成者の伊東教授も子どものころに付近の沼地で遊んでおり、巨大なコンクリートの基礎が点在している古代遺跡のような不思議な光景だったと述べられています。
理由②
つらつらと書いてきましたが全部引用ばかりじゃないか!と言われそうなので私も少し調査して分かったことを今から書いていこうと思います。
研究所と工場が同じものと思っていた私はまず新留萌市史を開いてみました。
北海道人造石油についてのページを開くと町を挙げて工場の誘致が行われたことが書いてありますが、気になる文章が続いていました。以下留萌市史から引用
三六万坪とも三七万坪ともいわれる広大な敷地が用意され、昭和十四年四月、液化工場の地鎮祭が、また同年六月、研究所の起工式が行われた。
三六万坪とも三七万坪ともいわれる広大な敷地!!
ここで今まで研究所=工場という勘違いが消え去りました。36万坪は約1.2k㎡。あの研究所が経っていた敷地はどうみても小さい。
全く広大とは言えない。
…
ここで謎の施設群があった土地を思い出してほしい。あそこも含めて研究所・工場の敷地だったらどれぐらいの面積だろうか。
現在の自衛隊駐屯地に加え、旧留萌高校や留萌市立病院がある東雲町が敷地だったと仮定する。
すぐに計算サイトで面積を測ってみた。


なんということか。ざっくりとした計測だがおおよそ等しい面積である。
少なくとも現在の自衛隊駐屯地の面積よりも近しい値。
これで写真の施設群は北海道人造石油株式会社留萌工場であることが史料からも言えることになる。
また、「人造石油工場設置ノ儀ニ付請願」と題した請願書については以下のように記述されている。新留萌市史より
「無尽ノ炭田ヲ擁シ優越セル資格条件ヲ具備スル北海道留萌港二人造石油工場ヲ設置」することを請願する理由として、留萌港が「本道石炭埋蔵量ノ半ヲ其ノ背面地ニ抱擁」し、しかも近くには雨竜炭田(埋蔵量二億三七〇〇余万トン)、留萌炭田(同三億五五〇〇余万トン)があり、後者は「豊富無尽ノ処女炭田」であり炭質は「製油原料トシテ最も適良」であること、また留萌港は「水陸運輸交通至便ナルノミナラズ新興港湾トシテ現在其ノ接壌地帯ニハ広大ナル価格至廉ノ工場地域ヲ有シ」、さらに河川の「水量が豊富ニシテ製油事業遂行上極メテ好適」であること、などをあげている(北海道留萌町長赤石忠助「人造石油工場設置ノ儀ニ付請願」留萌市史編さん室所蔵)。
要約すると
- 炭田が付近にあり炭質も製油に適している
- 港がある
- 河川の水量が豊富である
の3つが工場誘致の理由となっている。河川について注目すると現在も残っている研究所は河川から西に離れた場所に位置しており、工場と思われる施設群は少しではあるものの河川に近い。また、他よりも大きな道路が縦横にあり、隣接して建物が並んでいる。
ここからも写真の施設は北海道人造石油株式会社の工場であることが言えると思います。
写真の施設群が工場だと分かりました。しかし、滝川工場の写真は見たことありますが留萌工場の写真は一度も見たことがありません。
確かに、人造石油については最高機密であったため留萌の研究所の写真を撮ることや言及することも厳しく制限されていたと聞いたことがあります。戦争に勝てるか勝てないかを左右するといっても過言ではないプロジェクトですからね…
建設中で未完成のまま終戦を迎えたことから写真を始めといた情報が少ないのだろうと思います。
もし、工場が完成していたら…人造石油の精製が成功していたら…
想像もつきません。
留萌は一大工業都市になっていたかもしれません…
北海道人造石油株式会社のその後
その後の北海道人造石油株式会社はどうなったかというと、戦後、設備の収容を恐れて平和産業へと舵を切ります。船底塗料の製造などの実験も行われましたが最終的には漁連と提携して「留萌水産工業株式会社」となりました。
留萌水産工業株式会社は魚油を原料にした石鹸、大豆に塩酸を加えてアミノ酸醤油などを製造販売したとのことです。
工場は未完成だったものの船底塗料製造の実験や石鹸などを製造できたということは、何かしらの設備は完成していたということが分かります。第一に設備の収容を恐れて平和産業を模索していますから…
終戦まで操業に至らなかったとはいえ、かなりの設備が完成したのではないでしょうか。
しかし、全て上手くいかないのがこの世の中です。
新たな会社を設立してまで守った設備ですが、昭和24年には冷凍能力60トン、冷蔵能力700トンの冷蔵庫が完成したものの、原料供給の不安定性が続き、 冷蔵庫は不便な所に立地したために機能不全に陥ったことで経営状況が悪くなったことに加えて、朝鮮戦争のによって鉄屑が高く売れたこともあり、設備は売られてしまったそうです。ここで、工場は跡形もなくなくなってしまうことになります。(ただ鉄屑として売られるとは悲しいですね)
この文章を読んでんっ?と思った方はいるのでしょうか。読んでほしいのはここです。
昭和24年には冷凍能力60トン、冷蔵能力700トンの冷蔵庫が完成
昭和24年ということはあの航空写真が撮影された1年後じゃないか!
(この流れ何回やるんですか)
はい。そうなんです。だから、あの写真に冷蔵庫の建設中、若しくは建物が写っていてもおかしくないのです。
写真下のほうにある白い基礎のようなものが建設中の冷蔵庫なのか、他の建物がそうなのかは分かりません。分かる方、予想した方は教えてください。
原料供給の不安定性というのはおそらく原料の魚である鰊が3月から5月にかけてしか産卵のために来遊しないことに起因していると考えられます。最近話題になった群来という海が白くなる現象のやつですね。
あとは鰊の不漁ですかね…(留萌は昭和30年頃から不漁になったと聞きますが)
気になるのは不便なところに立地したため機能不全に陥ったというところですね。
いや、不便なところに建てるなよと笑。
線路だってあるから輸送の面でもいいと思ったのですが。
ここから線路の近くではないようなのでやはり下のほうにある基礎かな~と予想しております。
下の赤い矢印か、中央の矢印か、またはその他か。
幻の工場
最後に余談ですが施設群の正体の候補として考えていた工場があるので簡単に触れておこうと思います。(これも別の記事としてちゃんと書きたい)
実は留萌には、北海道人造石油株式会社の誘致の際に並行して誘致運動が進められていた幻の工場建設案があったのです。
その工場案とは硫安工場です。
硫安??
りゅうあん??
なんだそれって感じですよね。私も最初分かりませんでした。
硫安とは硫酸アンモニウムのことで主に肥料として使用されます。
硫安。農家の方や畑している人は分かったかも?(硫安を「への字追肥」しました。 | 自然派で行こう♪ (ameblo.jp)より)
石油も不足していましたが、食糧不足も問題として存在しており食糧増産のために化学肥料の増産が必要でした。
その硫安を製造する工場を砂川と並んで留萌に誘致していました。
その計画について新留萌市史から以下に引用します。
昭和十三年八月に発行された『留萌町勢要覧』は、工場建設についてより具体的に次のように記している。
東洋高圧工業株式会社は今回資本金三千万円を六千五百万円に増資し本道に進出、留萌、砂川両町に工場を建設することとなり、今春以来工場用地の買収に着手し最近殆ど完了せるを以て年内に手の方針である。同社は増資の大部分を道内企業費に充て昭和十五年に工場並諸設備を完成し第一期に於て二十五万の硫酸アンモニアを生産し、第二期計画は五十万屯増産の予定である。
砂川工場は専ら石炭を原料としてアンモニアを製造して留萌に送り、留萌工場は硫化鉄鉱を材料として硫酸を製造し踵で硫安を合成するのである。
砂川で石炭からアンモニア留萌に送り、留萌工場では硫化鉄鉱を材料として硫酸を製造し、硫安を合成する計画だったんですね。この文章の続きも以下に引用します。
マサリベツ二十五万坪に工場並住宅を建設港北二万坪に倉庫並クレーンを設備し古丹浜の一部を埋立て岸壁を築造し海陸連絡の便を開き生産品を当港より輸送する計画である。
ということで工場はマサリベツに建設する予定だったんですね。マサリベツがどこかというと、ここです。
こんな所にも工場を建設する計画があったとは…驚きですね。
地図をご覧になって分かる通り、航空写真の位置とは全く異なっているため、硫安工場説は消えました。
この硫安工場建設について「当町は一躍本道有数の工業都市たらんとして花々しく工業界に進出登臨し工業北海道建設の先駆を為し著しく世人の注目を引くに至った」と留萌市(当時は町制)が自慢げに謳い、当時の新聞には「留萌硫安工場の設置 敷地買収近く決定せん 東洋一を誇る驚異的の施設」(留萌市史より原文ママ)という四段抜きの見出しで大々的に報道された工場がなぜ幻の工場となってしまったのか。
さらなる調査を踏まえて改めて記事を書こうと思います。
あとがき
長文となりましたが今回の記事はいかがだったでしょうか。
多くの情報、推測は私が最初に発見、考えたことではありませんが、史料を踏まえてまとめてみました。
お気づきの点がございましたらコメントやTwitterでご指摘ください。
国策として進めらた人造石油製造。その工場が留萌市にあったこと。
そして、研究所とは別に工場が建設されていたこと。
これらは日本歴史にも関わる重要なことだと考えています。
謎の施設を考察することに目的に書いたので、留萌駅から工場へと繋がる線路ついては全く考察できませんでしたが、そこも含めてこれからも調べていきたいと思っています。
- 人造石油について
- 硫安工場について
この二つはかなり後にはなると思いますが記事を書くつもりです。
最後までお読み頂きありがとうございました。
ーーーーー参考文献・サイトーーーーー
- 『新留萌市史』平成15年3月31日発行
- web版化学プロセス集成 北海道人造石油物語 滝川工場 留萌研究所 (fc2.com)